2009年12月29日

【番外篇】サプサンに至る遠い道。モスクワ−レニングラードの知られざる高速列車たち(下)

 サプサン運行開始前の最速はネフスキーエクスプレスの4時間30分でした。サプサンは在来線経由ながらも一気に45分も詰めた事になります(ちなみにER200は4時間20分)。
 余談ですが、廃止されたと思しき昼行準急23/24列車は7時間22分(モスクワ12:30発、ペテルブルグ19:52着)というものでした。

 参考までに、12月17日までのモスクワ発時刻を張っておきます。
024 モスクワ12:30 > ペテルブルグ19:52 所要7:22
160 モスクワ16:30 > ペテルブルグ22:00 所要5:30 アブローラ
166 モスクワ19:00 > ペテルブルグ23:30 所要4:30 ネフスキー
(※この他に夜行が多数)
 
 午前中の列車が1本もないことと、速達便が夜に集中しているのが印象的です。

 そして、12月18日からのモスクワ発時刻。
152 モスクワ06:45 > ペテルブルグ10:30 所要3:45 サプサン
156 モスクワ13:00 > ペテルブルグ17:15 所要4:15 サプサン
160 モスクワ16:30 > ペテルブルグ22:00 所要5:30 アブローラ
158 モスクワ19:00 > ペテルブルグ22:45 所要3:45 サプサン
166 モスクワ19:15 > ペテルブルグ23:30 所要4:15 ネフスキー
 
 152列車は「革命的」ですね。モスクワ早朝に出て、ペテルブルグまでの日帰りが可能になったわけですから! この列車こそ、夜行中心のロシアの鉄道を変えて行きそうな予感がします。

 閑話休題。
 今回は伝統ある「アブローラ」の歴史と、或る200km/h客車の悲話を紹介します。

 ネタ元は前回同様、
 「забытые поезда россии (忘れ去られたロシアの列車)」
http://rt200.narod.ru/index.html
 から。

●伝統の特急「アブローラ」(オーロラ)号
 この列車は今はモスクワ⇔ペテルブルグ間に5時間30分を要しています。
 しかし、所要時間が5時間を切っていたこともありました。

 モスクワ⇔レニングラード間の高速化と昼行運転の第一歩がガンツのディーゼル動車でした。しかし、本命は通常の客車列車にあったようです。
 1957年には、ТЭ7(TE7)形ディーゼル機関車が最高速度140km/hをだし、この区間を5時間54分で走らせることに成功。
 1960年5月には上を受け、同ТЭ7牽引の昼行特急「アブローラ」が設定されました。所要時間6時間20分。ガンツのディーゼル動車に比べ、10分の短縮。また、それまでの最速客車列車は夜行「赤い矢」号で7時間55分を要していましたから1時間半もの短縮となりました。

 昼行ですから客車=寝台車のロシアであってもこの列車は座席車仕様。2−2配置のソフトクラスでした。
(おそらくリクライニングシート。ER200同様の左右逆向けの、1方向け固定?)

 1962年に同区間電化完成。「アブローラ」は牽引機をУС2(ChS2)とし、所要時間を5時間27分に短縮。
 そして1965年、所要時間は4時間59分となりました。「アブローラ」の一番良かった時代。

 その後ER200や「ネフスキーエクスプレス」によって「アブローラ」の地位は下がっていきます。今は途中2駅停車ですから、所要時間が延びてしまったのも已むを得ないのでしょう。
 そして、サプサンへの置換えを待つ現在……。オーロラという愛称が何らかの形で引き継がれることを願いたいものです。

http://rt200.narod.ru/de.html
 写真はこちら。
 専用のツートンカラーの客車が鮮やかです。また、「ロシアのEF58」ことУС2のカラーリングが今と全く異なるのも注目。

●ロシアの「或る列車」? 高速客車РТ-200(RT200) 「ロシアントロイカ」

 写真はこちら
http://rt200.narod.ru/photo.html
 図面はこちら
http://rt200.narod.ru/draw.html

 1960年代末(おそらく新幹線の影響を受けて?)、ソヴィエトでは更なる高速化のための検討を初めていました。従来の機関車や客車ではなく、革新的なものでの200km/hのオーバー。
 その答えの一つが有名なЭР-200高速電車。1974年落成、1986年営業開始し2009年3月まで週1回の運行を行いました。
 もうひとつの検討がУС200(ChS200)電気機関車と、その専用客車РТ-200(RT200)でした。

 УС200電気機関車については既に記しましたが
http://seihoukaisya.seesaa.net/article/133548766.html
 チェコスロバキアのシュコダ社製造で試作2両(1975)と10両の量産機(1979)。2車体8軸(B−B+B−B)で主電動機出力1050kw×8というもの。
 この機関車自体は成功作であり、量産機は今もネフスキーエクスプレス牽引に活躍しています。

 客車の方は以下の通り。
 РТ-200系客車は1973年に9両が製造。うち1両がビュフェ車(それに加えて在来客車より電源車1両が改造)です。ЭР-200高速電車同様のアルミボディで空力を考慮した形状(不思議な台形断面)、そして高速向けエアサス台車。
 テストを繰り返し、1975年には営業に入っています。レニングラード発13時ちょうどでモスクワ着18:43といいますから、5時間43分ということになります。
 このときはУС200の完成が遅れたため、УС2Tが牽引していました。
 
 命取りになったのは、この代用運用だったようです。ブレーキのコンプレッサの容量不足?のためかУС2Tによる牽引では客車6両に制限されてしまいました。高速運転時の制動距離にも問題があったようです。УС200に関しては高速パンタグラフの開発に難航していたようで、なかなか安定しませんでした。
 1980年4月10日をもってРТ-200系客車の運用は終わったのでした。

 皮肉なことに前後してУС200が量産開始されています……。
 この辺の事情は元のサイトの訳文を読み返してもわからないのです。なぜУС200の量産を行ってしまったのか? 何故РТ-200系客車をУС200が安定するまで「温存」しておくことが出来なかったのか?
 まぁ、特殊な車が敬遠されたのは想像できる話ですが。
 
 РТ-200系客車はその後は放置荒廃し、少しづつ姿を消していったようです。最後の2両のうち1両はペテルブルグのフィンランド駅構内に留置。しかし2000年には消えてしまいました。
 もう1両は、ペテルブルグの旧ワルシャワ駅に今も姿を留めているとか。鉄道博物館の隣ですから、何とか助けてやることはできないのでしょうか?

 УС200は2001年より「ネフスキーエクスプレス」に使われるようになり、ようやく元来の性能を発揮できるようになりました。但し、サプサンへの置換えも控え、今後が気になるところです。

●最後に「或る電車」のこと
 さて……サプサンの影にはもう一つVSM250(Сокол ソコル)が眠っています。
 このまま終わってしまうのでしょうか?

 ロシア語版wikipediaによると、2001−2002年のテストの結果、以下の欠点が指摘されたようですが……。
・台車枠の溶接部の強度不足
・ブレーキディスクの加熱(電気制動あるでしょうに?)
・パンタグラフが250km/hでの連続運転には耐えられない
・室内騒音が大きい
・断熱性能に劣る
 等々。

 ドイツ製のICEも急場凌ぎにはいいのですが、鉄道大国ロシアとして、独自技術の高速列車も見捨てないで欲しいものです。
ラベル:ロシアの車両
posted by 西方快車 at 01:33| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月28日

【番外篇】サプサンに至る遠い道。モスクワ−レニングラードの知られざる高速列車たち(上)

 去る12月17日夜より、モスクワ⇔サンクトペテルブルグ間に高速列車「サプサン(Сапсан)」の運行が始まりました。高速新線ではなく在来線への高速電車の投入による暫定的な高速化ですが、「毎日運行+3往復運転」というのは中々の気合の入れかただと思う由……。
 所要時間はノンストップの速達便(2往復)が3時間45分。途中停車あり(1往復)が4時間15分。

 さて。
 日本の感覚だと650km程度の中距離で、「毎日運行+3往復運転」って当たり前というか寧ろ少ないんじゃないの? という話になってきそうですが、あの国ではER200を同区間に週1往復しかさせてこなかった歴史があります。また、これまでもモスクワ⇔ペテルブルグには昼間の直通列車が1日3往復しか無かった(2往復の特急と1往復の準急相当)事実もあります。
 今回の運行開始で、在来の特急(「ネフスキーエクスプレス」「アブローラ」)も当面残したままでサプサン3往復の5往復体制ですから、夜行主体のこの区間の利用状況も大変革が予想されるのです……。

 そんなモスクワ⇔サンクトペテルブルグ(レニングラード)間650kmの運行状況、昔は如何に? 知る術もないのかと思いきや、今のロシア鉄道趣味界のパワーは物凄い!
 「забытые поезда россии (忘れ去られたロシアの列車)」
http://rt200.narod.ru/index.html
 というサイトが中々劇濃です。そこからの引用でまとめてみましょう。

 なお、ER200に関しては先のエントリ「ペテルブルグ篇14(鉄道博物館11。ああER200! 週1運転の謎の高速電車)」
http://seihoukaisya.seesaa.net/article/135466118.html
 を参照願います。

●ガンツ社製ディーゼル動車「ДП-01」(DP01)の時代
http://rt200.narod.ru/dp.html
 写真は上記リンク参照。

 1949-1950年にハンガリーのガンツ社にて、ДП-01から03までの3組の高速ディーゼル動車が製造されました(3両というのは動力車の数。2両を編成して1両は予備か?)。計画は1944年に始まっていたものの戦争によって延期されていたものです。ミッションは機械式と思われます(ガンツは機械式での総括制御技術をもっていた模様)
 編成は6両編成で「動力車+附随車……+附随車」で定員はソフトクラス164名(乗務員14名)。この数値はいささかデラックスに過ぎる気もしますので(1両定員30名とかいう話になってしまう!)間違いか、編成の半分を指しているものと思われます。これなら1両60名程度の定員となり、普通の豪華特急の範囲に収まりますから。
 編成全長は158mですから、1両は25m級ということになります。全幅は3010mm。

 動力車は床上のエンジンルームの後ろに荷物室、その後ろに客室。日本流にいえばキロニ。
 中間車のうち1両には調理室とビュフェが設けられていました。キサロシといったところでしょう。

 動力車は3軸ボギーの動台車と2軸ボギーの付随台車という構成。これは後に量産されて今も現役のД1形と同じです。機関出力220馬力×2。自重85頓。設計速度は104km/h。

 1950年6月28日に運行開始。所要時間は7時間半。もちろん当時の最高速列車でした。
 なお、1951-1952年にかけて、ДП-04から08の5両が増備されています(6両編成にして4本が揃ったものと推測されます)。
 1957年には塗色がダークブルーに白帯より、赤とクリームのツートンカラー+白帯に改められました。

 1961年、モスクワ⇔レニングラード間は電化と前後して引退しました。1967−69年頃までは波動輸送用に使われた模様。その後、人知れず廃車されてしまったようです。
 2008年地点では、廃車体1両が倉庫として残されているのみです。
http://parovoz.com/newgallery/pg_view.php?ID=169455&LNG=EN#picture
 
 また、
http://parovoz.com/newgallery/index.php?CATEG=-1
 より、サーチワード「ДП」でかなり同車の珍しい写真を集めることができます。車内写真がないのが残念ですが……。


 概要は以上。以下考察。
・1950年地点で1編成+予備。モスクワ⇔レニングラードの運用には2本必要ですから、毎日運行ではなく隔日とか、ER200のような週1回の運行だったのでしょうか? 増備車落成で4本体制になれば、毎日運行+予備2本とできたのでしょう。

・定員は編成162名というのは少なすぎると思ったのですが、西ドイツのTEE(VT11.5)は前後が動力車といえ、編成定員は122名(7両編成時、全長130m)でした。これに間違いがないなら、西側のTEE相当の豪華ディーゼル列車ということになります。

・スタイルはフルフェイスヘルメットか一つ目宇宙人を思わせる癖の強いもので、異様な印象を持たれると思います(笑)。但し、これはガンツの標準型の一つで、同種の車がハンガリー、アルゼンチン、チリ等で使われていました。前面窓を大きくするなどで幾らか印象を緩和したものがユーゴやチェコで使われ、中国にも輸出されていました。
(中国のガンツ製気動車もまた幻の存在です。自分が知る限り「世界の鉄道68」(朝日新聞社)に載った写真が唯一の情報……)
ラベル:ロシアの車両
posted by 西方快車 at 23:59| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月25日

【第10日目の1 20090604】モスクワ篇7(ペテルブルグ→モスクワの55列車。ロシアの1等寝台車)。モスクワ地下鉄。

 一般に二人用の個室寝台というのは、上下2段で一室になっているものです。で、寝台のない側にはソファとか洗面台があったりすると。RW19はまさにこれに該当。トワイライトのB個室2人用もこの変種でしょうね。
 まぁ安いの(デュエットとかT2とか、アムトラックのルーメット……は安くないか)や、凄く高いの(カシオペアデラックスとか)は別ですけど。なんであれ、あの空間は憧れを喚起するものです。
 
 でも、ロシアでは常識が通じません(笑)。
 下段寝台だけの二人用個室寝台というのは、予備知識無しでみたらやはり驚きます。



 そして、正直云えば期待はずれ……。上方空間がゆとりあるだけで、2等寝台と何ら変りないわけですから。そのうえ運賃料金は2等のちょうど倍。ちょっと勿体無かったなぁ……と思ったり。

 後から聞きましたが、極東ロシアのオケアン号も同種ですし、新型化後の赤い矢号も同様。中国の高包でもこのタイプが存在するようです。
 一応フォローしておくと、二人とも下段という意味で不公平がないですし(やっぱり上はハズレ)、同じ空間に2人と4人では密度感が違いますので、存在意義も料金分の価値もあるんでしょう。でも、客車好きとしては面白くないと云わざるを得ません。なによりベット二つで床が埋まってしまうような息苦しさがあり、上等級ならではのゆとりが感じにくいんですから。

 なお、ロシアでも西欧に直通する寝台車は少し前の西ヨーロッパ同様の3人用個室(2人まで使用で1等扱。3人使用で2等扱)が使われているとも聞きます。一方、中国行きの19/20列車はどうなっているんでしょう?


 カーテン整えられ、花が飾られているのも嬉しいのですが、2等も同じなんですよね(2等がお得!)。ジュースとカップスープのサービスは1等だけですが。
(このカップスープもって帰ってきて、まだ飲んでません……)


 鏡とか棚とか。化粧板の面積が広い分、安っぽさが気になってしまいます。


 通路側を見る。一見無意味に見える上段への折畳はしごですが、通路上の荷棚へのアクセスのために必要。

 ちなみに55列車は普通急行か、下手すりゃ準急のような立場の列車。そんな列車の1等寝台の利用率というのは気がかりなものですが、ほぼ全室満席でした。ロシアには金持ち多いんだなぁ……というより、特急の2等より準急の1等選ぶ捻た(失礼!)お客が多いんだなぁ……と、人の事云えませんが。
 同室者は初老のビジネスマン。如何にも出張慣れされた感じの落ち着きでしたが、英語は出来ず。挨拶程度しか出来ませんでした。まぁ先方も日本人旅行者の同室には驚いたかもしれません。

 しばらくすると検札。そして車掌がなにか尋ねてきます(勿論ロシア語)。隣室の若いビジネスマンが英語でフォローしてくれて助かりました。朝食のことで「チキンかソーセージか、粥か」と訊いているようです。ソーセージと何とか伝え、そろそろ1時なので阿吽の呼吸で消灯と。
 一日歩きまわっただけあって、流石によく眠れました。

 明朝は6時か7時に目が覚め、隣の車を覗きにいくとなんと食堂車でした。内装は3列車についてたロシア国内用と同じ標準的なもの。営業はしておらず、供食サービスのための基地という使い方なのでしょう。


 新聞も配られます(全く読めませんが)。アメニティセットも56列車同様に配布。

 で、8時頃に朝食。

 付属品のパック。これも56列車の2等と同様……。


 笑ってしまうしかないですね。あのマズいカーシャがまた出てくるとは。1等でも同じというのを残念と思うより寧ろネタとして笑ってしまえるレベル。
 ソーセージだけ頂きました(苦笑)。
(朝食なら素直に黒パンとバターくれりゃ文句云わないのに)


 モスクワ・レニングラード駅には9時過ぎに到着。これが乗車したMECT18。
 今回はモノの試し、ということでの1等(リュクス)利用でしたが、この区間に関しては2等(クペ)で十分だと思いましたよ。


 ChS2T(ЧС2T)電機が3並び。最悪に不恰好!とか思ったこの機関車も何度も眺めていると情が移って「悪くないんじゃないの」とか思えるのがなんとも。
 
 さて。
 この日は19時45分発の北京行きCA910便に乗るまで適度な時間があります。
 先ずは、一昨日に休館だった宇宙飛行士博物館へのリベンジをば。


 ロシア慣れしてきて、地下鉄でちょっとシャッター押すくらいは抵抗がなくなりました。
(ちなみにモスクワは撮影禁止ではないと知ったのは帰国後)
 定番の?コムソモーリスカヤ駅。




 モスクワの地下鉄駅の多くは、3つのアーチで構成されています。よく観光ガイドなどで見るのは真ん中の通路部分のアーチで、その左右にホーム部分のアーチがある由。立派な割に掘削断面を減らすことのできる合理的な作りではあるんですね。
 柱の多い作りになるので、日本のラッシュ時向けではありませんが。


 (多分)プロスペクトミーラ駅(自信なし)。色数抑えめなのが上品です。ベンチの作りも立派。


 アーチを横切る形での連絡通路から。電車は小汚くあんまり趣味がよくないのが難。勿論冷房ないのでこの季節にはちょっと暑いですし。


 ずっとシンプルな作りの駅もあります。これでも東京とかにあったら「名駅!」とか云われちゃうんでしょうね(え、大阪市交の心斎橋とか梅田はって?)。華麗なのはともかく、この程度の駅でも羨ましく感じます。
posted by 西方快車 at 19:07| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月24日

【第9日目の19 20090603】ペテルブルグ篇19(市電その5……にはなりませんでした。ハズレの街歩き。モスクワに戻る55列車)

 そういえば、ペテルブルグの街を歩いていると何度か年配の方に声を掛けられました。勿論、友好的な雰囲気で。ロシアが親日国であることを実感しますけど、こちらが全然ロシア語分からない悲しさ。大変に申し訳なく思う次第で。

 さて。
 市電撮るのも落ち着き、モスクワ駅に戻るためネフスキー通りへ向かう16系統の市電に乗ろうと思いました。しかし、16系統であろう軌道敷はあるのに、なかなか停留所が見つかりません。
 やむなく、軌道敷沿いにあるきながら、電車を探すことにします。


 リチューイヌィ橋。ネヴァ川に掛かる可動橋の一つ。上には可動橋を示す標識があります。
 ちなみに時間は22時位。限りなく白夜に近い世界。日本の同じ時期の19時くらいの明るさなので、その点でも不思議な感覚ではあります。


 橋の開閉時刻の掲示。1日1回、1:40〜4:45まで開ける旨。
 深夜なので、泊まらないと可動の見学は無理ですね。


 欄干の装飾。人魚が艶っぽく、尾の部分が可憐。やっぱり革命前のもんなんでしょうか?


 川を渡っても停留所が見つかりません……。
 ここで間違えたのが、地下鉄に乗ろうと地下鉄駅探してしまったこと。素直に軌道敷沿いにネフスキー通りまであるけば、最短距離で迷うことなくモスクワ駅に辿りつけたハズだったんですが。


 





 迷ったおかげでであえた?古風なビルたち。食傷気味かもしれませんがお許しを。
 よくよく考えてみたら、ペテルブルグの中心部だとモダニズム系のシンプルなビルの方が稀……というか皆無かもしれません。
 共産主義時代に美しい街並みを壊さなかったことは、いろいろ考える余地がありそうです。
(例えば、壊して立て直すカネがなかったという可能性だってありそうなものですし)


 多くのビルはデコラティブなんですが、さすがに人物系の彫刻は珍しいものでした。


 可愛らしいトレーラー。

 で、迷った挙句にまた16系統軌道敷に戻り、ネフスキー通りまで出て23時過ぎにはモスクワ駅に辿り着きましたが、まっすぐいけば2kmも無かったのに、迷ったおかげでえらく余計にあるいたような。
(ちなみに16系統の停留所に電車はついに見かけず。廃止されっちゃったみたいですね)
 系統が全くわからず言葉もわからないためバスに乗れないのは、ちょっと辛かったです。

 救いは時間的余裕があったことでしょうか。何せモスクワに戻る55列車は0:40発ですから。
 
 駅では多少の時間があったのでまだ開いてたカフェテリアで夕食取ったら美味しくなかった(おまけに対応よくないし)。でも外に出る気力が残ってなかったので仕方がなくと。
 そして0:20ころに55列車の改札開始。ちらりと到着して回送待ちのロシア最高速列車(当時)「ネフスキーエクスプレス」も見えましたが、やはり写真とるほどの気力なし。

 帰りはリュクス(一等寝台)張り込んだので、どんな車か楽しみではありました。車自体は行きのクペのような新型ではなく、やや古そうな車でした(3列車のクペと同じような)。デッキでのチェック時に時間がかかりオバサン車掌にあれこれ(ロシア語で!)云われたので「切符になにか間違いが? 乗れないのか?」とか不安になりましたが、単に部屋番号を伝えただけのようです。わからなそうな顔してたら、部屋まで案内してくれましたから。


 1等寝台車MECT18の廊下。カーテンがやや上質に見えますが、基本的に2等寝台と同じです。床の絨毯上に布敷くのは貧乏臭いので1等寝台ではやめてほしいものですが。
 木目の化粧板はRW19ほど上質ではないです。さて、部屋はどんなものかしら(次回に続く♪)。


 おまけ、この半日お世話になった折りたたみ傘(耐久力皆無。ビニール傘なみの¥400位)。技術力に無理あるなら無利して3折の傘にしなけりゃいいのに……。当然ゴミ箱行(苦笑)。
 ペテルブルグは雨が多いみたいなので、まともな傘は日本から持っていった方が良さそうです。
posted by 西方快車 at 19:57| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月21日

【第9日目の17 20090603】ペテルブルグ篇18(市電その4。昔は良かった?)

 そう云えば、12月18日よりモスクワ⇔サンクトペテルブルグ間にサプサン(ICE3)が運行開始してますね。いきなりの3往復体制はなかなか思い切ってるとおもうんですが、評判は如何に? また、今のところはネフスキーエクスプレスもアブローラも運行していますが(サプサンと合わせ、昼行が合計5往復)、今後サプサンの増加で置換えの話もありそうです。気軽に乗りに行けるところではありませんが(笑)、乗り納めはお早めに?
 なお、モスクワ⇔サンクトペテルブルグ(レニングラード)間の高速運転史に関しては面白い情報仕入れていますので、近々コンテンツ一つこさえてみようと思っています。

 さて。
 サンクトペテルブルグ市電の車輌に関しては安普請でメンテが悪く元々の設計もよくなく……と、愚痴ばかりですが。……昔はどんな車輌だったんでしょうか?
 6系統の沿線に保存車があり、車内からですが撮影できました。




 可愛らしく、そして上品、エレガント! 2軸単車ですからそれなりに古い車でしょう。でも革命前の車ってことはないと思います。
 で、なんでこんな美しい電車を走らせていたのに、今の電車はここまで醜く安普請になってしまったんでしょう? 別に古い電車だけが好きで新しい電車が嫌いってわけじゃないですよ。昨今の欧米や日本の新型低床車には素晴らしいもの多いんですし。
 私感ですけど、この保存車を、あの安普請電車から毎日眺める運転士や車掌、利用者はどう考えてるんでしょう……。ちょっといいたまれなくなります。
 

 電車から中心部の建築ウオッチング。
 ペテルブルグの中心部には、日本なら保存運動が起こりそうな味のある古ビルが沢山ならんでます。可憐で凝ったものが多く、ここは羨ましく感じること頻り。




 1階はお馴染みヨールキパールキ。


 左右が微妙に非対称。でもバランスよくまとまっています。出窓の部分の部屋に住みたい!


 ボウウインドウ(曲面出窓)の濫用。でも、それがいい! 破風の飾りも綺麗。


 随所の曲線が綺麗です。内装もアールヌーボォーしているんでしょうか?


 右の温室?と思しきガラス張り部分のデザインが素晴らしいです、


 街並。日本だと名物になりそうな古ビルこそが当たり前という風景。


 6系統の電車は巡洋艦アブローラを右に見ながら進む。アブローラは三笠のライバル、時間があれば見学したかったんですが……。


 対岸の景色もまた、魅力的。高層の建物がないのも不思議な気がします。ソ連時代にも高さ規定などがあったのでしょうか? モダニズムの摩天楼はともかく、モスクワで特徴的なスターリンゴチックさえペテルブルグでは無粋なものになってしまうのでしょう。


 電車の終点はフィンランド駅。複数系統が出入するため、電車は3000番代と7000番代が入り交じります。左手の装飾少なめの建物がフィンランド駅です。


 フィンランド駅周辺にて。


 23系統の電車は7000番代。午前中にみたのと同じです。
 背景がいいとガタ電も魅力的に見えるのがなんとも(苦笑)。


 フィンランド駅周辺の古ビル。ここも破風が見事。
 側面の壁画が微妙にロシアと言うかソ連的で印象に残ります。宗教的にも、唯物論的にも見えるのがなんとも不思議です。


 架線のみならず、標識に信号機すべてワイヤーで吊ってしまうのが面白い。


 写欲のわきにくいペテルブルグの電車ですが、新型はまだ見れるスタイルなんでシャッター切る頻度も上がります(笑)。台車周りも覆っているデザインは、やはり低床電車を意識しているんでしょうね。


 ラーダワゴン。意外と希少車で他では見かけませんでした。


 ラーダ初期型? 二つ丸目は探さないと見つからないというレベル。多いのは角目か丸目4灯。


 キャブオーバーの小型バス。非常口が常用ドアと同じ側面にあるのはなんとも不思議。


 フィンランド駅前にて。連接車の方は室内照明が白熱灯であるのがわかります。
 駅にはロシア語だけではなく、英語で「Finlandsky Railway Station」とあるのは、西側フィンランドに向かう駅であることを意識させますね。
 駅舎自体はモダンなデザインに壁面の彫刻と、ソ連っぽいもの。
posted by 西方快車 at 23:33| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月19日

【第9日目の17 20090603】ペテルブルグ篇17(市電その3。綺麗な街並みとボロ電車)

 サンクトペテルブルクの市電はかつて世界一の路線網を誇った……とは伝え聞きます。しかし、現在および過去の路線図系統図が入手できないので、その全容がどうも理解できません。現地で系統地図の類(英語版なんて贅沢なこと言わず)が入手できればそれにこしたことはないんですが、よく探さなかったこともあり見つからず。
 先の鉄道博物館の件で、ロシア語サイトを翻訳サイト通してみるのにも慣れてきたので、そちらからのアプローチも図ってみたいところ。

 と、前置きはともかくその時手持ちで使える地図といったら「地球の歩き方」の市内地図しかない。かろうじて市電の線路と幾つかの系統番号が記されているのはほんとに助けられました(あとで一回、お馴染み「地球の騙され方」になったとこもありましたけど、後述)。

 そんなわけで別系統の市電求めて3回目の地下鉄に乗り、ゴーリョフスカヤへ。ここから6系統の電車が捕まえられるのです。



 駅前に保存されていた昔の鉄道馬車。車両の群青色がロシア人好みといいますか。よく見ると2階建てで螺旋階段があるのも分かります(冬に2階乗りたくない……)。
 馬と御者は銅像で再現しているのが面白いですね。


 ここにも格好良いクラシックなビル群。
 素朴な疑問なんですけど、この種のビルって全部革命前のってことは、まさかないですよね?
 ソ連時代でもスターリンの頃まではスターリンゴシックに代表される古典主義だったこともある筈ですし……。地下鉄駅に関してはセコくなったのはフルシチョフ時代という話もありますし(笑)。


 マルシュルートカ乗り場。ロシア固有の乗り物であり興味はあるんですが、ロシア語全くわからないと敷居が高そうな困った乗り物。
 ペテルブルグではこのタイプのバンが主流。後ろの荷室部分にもロングシート状に6席あり、ここには後ろの観音開きのハッチから乗り込む由。


 待ってたら6系統の電車がきました。午前中に見たのと同じ新型車ですがナンバーは5345(午前中に見た車は7402)。同型なのに全然違う番号なのはなにゆえ? ひょっとしたら、5000とか7000とか上一桁の値は形式ではなくて、所属区所でも表しているんでしょうか?


 今度は連接車。番号は3000番代。もう何がなにやら?
 連接車は午前中にも未乗だったので、これに乗ることにします。

 それにしても人々の身奇麗さ、建物の立派さ、車のリッチさに対して電車だけが小汚いのが悲しい……。


 最後尾に乗りこみ。町並みを振り返る。すれ違う新型車のお尻が可愛い。


 車内。見た目同様小汚く安普請(苦笑)。いつ頃作った車かわかりませんけど、白熱灯照明はないでしょ! 関東の通勤電車のむき出し蛍光灯とビンボ臭さを競ってますよこれじゃ。
 愚痴るのなんですが、運営当局は電車を大事にしてないです。


 20分位走ると終点。当然ここにも転回場。


 ここの終点も郊外の団地。こーいうところはしっかり「ソ連」です(笑)。背後の乗用車除けば30年前も変わらないんじゃないかという風情。
 団地の建物はよーくみるとバルコニーが曲線だったり、元のデザインは悪くないはずなんですが、例によってメンテが悪かったり安普請だったりで小汚くみえるのが難。
(ただ、市電1本で市内直通の便利さですからそれなりに家賃とか高いのかも……?)


 転回場では長居する用事もないのでさっさと次の電車で街に戻りたいところなんですが、なかなか来ません。退屈しのぎの1枚。




 バス車庫も近くにあり、ディーゼルのバスもトロリーバスもやってきます。


 連接車が街へと出て行く……。
 背後の大建築はなんぞや? 右の非常階段見る限り結構な高さがありそうなんですが……。


 電車は来るときには団子で来るものです。


 さらにもう1本。
 結局50分ほどをこの殺風景な場所で過ごしました。近くに商店とか何もないので微妙に凹みました……。寒いし雨降りかかってきそうな感じだし。
 でも、この国を体感できたような時間と考えれば無駄じゃないです、たぶん。


 再度乗り込んだ連接車。連接部のアップ。巨大なドラムになってます。
 隣車に見えるでっぱりは機器室。貴重な床面積を浪費する、無粋な設計と云わざるをえません。


 車内後部。


 車内前部を見る。
 サンクトペテルブルグはソ連を感じにくい街だと思うんですが、市電だけは時間が悪い意味で止まっているような気がします。日本の公共交通のように外部内部の広告がなくてすっきりしているのも、要は広告媒体としての魅力が電車にはないってことなんでしょうし。
(公共交通でも、地下鉄は広告多いです。勿論魅力的な駅設備を穢さないようなレベルで、です)
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2009年12月16日

【第9日目の16 20090603】ペテルブルグ篇16(雨宿りの巨大スーパー、地下鉄でネフスキー通りへ。崩れるソ連のイメージ…)

 結局、鉄道博物館の滞在は1時間半ほど。興味をもつための一時接触であったために一通り写真撮るだけで終わってしまいました。
 いや、それ以前に雨が酷くなってきて。よくカメラ(3年前のコニカミノルタとか書いてあるデジ一入門機)壊れなかったものです。いや、今でも雨の日に使うとシャッターボタンの調子悪くなるんですけどねぇ。あれこれ不満&いい加減古くなってきたということで、いつでも買い換える気満々だと扱いが荒くなるってもので(とかいいつつ旅行中に壊れたら泣きますけど)。

 ワルシャワ駅跡からなんとか表通りに出て、元のバルチースカヤ駅に戻る途中、幸いにも大型スーパー見つけました。雨宿り、あと傘が調達できれば……。
 ちなみに旅先で大型スーパー入るって結構好き。地元の普通の人の生活が見えるところですから。
 入った店は平屋建ての大型店舗、食品(酒)に衣料等の総合系。ダンボールのままでの陳列もありますので流行りのデスカウント系でもあるんでしょうか? よくも悪くも日本のスーパーと大差ない感じです。
 で、よくよく考えてみたら凄いことなんですけどね。
 だって20年前はソヴィエト体制で物不足&行列の世界。
 その崩壊後10年くらいは経済混乱しまくり。
 その辺の歴史考えると、ロシアの大型スーパーが日本(或いは中国あたり)と同じであるってことは感激しなきゃいけないってことになります。

 また、ロシアの一般の商店は、直に商品取れないとこが多いんですけど(ロシア語できない外国人には不便極まりない!)、スーパーだと普通に手に取ってカゴに放り込む当たり前のシステム。但し、入店時に鞄に封させられるのは治安とか問題有るのかなと思いましたけど。
 値段(食料品・酒)は駅前とかで買うよりは2割か3割ほど安い、まとめ買いだとさらに安い。この辺も日本と大差ないです。惣菜類も充実してて、どれも割と美味しそう。オームリの燻製までありました! 勿論物資は豊富で山積み。
 ただ、傘を探すとなかなか不便。男物の傘が高いんですよ……たしか安いので¥1500位したような。日本より高いぞ、と。しかし女物の折畳は安い……¥500位だったような気がします。やむなく、一番地味そうな奴で妥協しました(苦笑)。品質はえらくチープ(日本だと100均じゃないと有り得ない)でしたけど、この日一日もってくれればいいので問題なし、と。原産国も不明、中国製が高品質と思えるようなブツだったような。

 店内での写真は諦めましたけど(警備員多いし、日本でもスーパー内は撮影禁止だし)、よく考えたら店外なら撮っておいてもよかったかも。
 
 微妙に濡れたままバルチースカヤに戻り、直ぐに地下鉄へ。
 市内中心部っぽいところも見てみたいので、ネフスキー通り目指します。
 ネフスキープロスペクトで下車。地下鉄駅が古いビルの中に極自然に埋め込まれているのが不思議な感じがしました。この辺で環境的な調和みたいなもの考えるのもロシアのいいところではあります。


 ネフスキー大通り。「ソ連」って言葉は似合わない通りですね(笑)。実はサンクトペテルブルグの市内は何処もこんな雰囲気なんですけど。逆にソ連時代のミスマッチの方が興味津々。合理主義の唯物論唱えてた国の都が非合理的なクラシックな様式に溢れてたなんて、自分のソ連へのイメージが改めて壊されます。


 カザン聖堂。それよりもやたら長い輸送力本位の路線バスが印象的です。路線バスでの平屋で後輪2軸車って他の街でありましたっけ?(軍用車改造とかは別として)


 トロリーバス、やや古めの。クラシックな街並みになかなか似あうものです。


 看板のキリル文字さえなければロシアに見えない風景……というと失礼ですよねロシアの人に。先のスーパーの件もそうですが、この国の20とか30年前が想像しにくいですよ!
 ちなみに看板は携帯電話キャリア(メガフォン)のもの。古風な建物に今風の看板のミスマッチもまた西欧のよう……。

 さて食事。朝から何も食べてませんでしたから(アイスクリームだけは食べた)。モスクワで入って無難だと分かったヨールキ・パーリキへ。とはいえ、まだ昨日の体調不良は微妙に引きずってましたが。
 

 野菜なら食べられそうな気がしたのと、あれこれ冷菜系つまみ食いできるメリットでサラダバー頼み(山盛りしすぎ調子に乗るな!)、あと肉の煮込モノ(カーシャ添)、あと一昨日は軽く飲んでしまったビール1リットル。

 食べかけ写真ですいません。煮込はパイ皮包でしたが壊した後。カーシャは普通に美味しかった。

 で、やはり回復しきってませんでした。どれも美味しいのに食べきれない飲みきれない。
 会計はメモとってませんが、やっぱり¥1500内で収まったと思います。






 大通りから一歩入ったところがまた風情があります。


 問答無用! すべてが美しくエキゾチック。
 やっぱりソヴィエトという言葉とこの景色は似合いません……。
 まぁ、日本に来た欧米人も京都とか日光観て、同じようなミスマッチとか感じるものなんでしょうか。




 北のベネツィアという趣……。
 ちなみに流石に肌寒い雨の日だと、船乗り場は閑散としてました。


 大通りに戻って。
 大胆と思った新型のトロリーバス。中央ドア周りの三角窓が大胆? いや、反対側はもっと凄いんですよ!


 !! 大胆すぎ。中央ドア反対側の展望感はさぞかし素晴らしいでしょう。


 1904年築のシンカー社ビル。
 クラシックに見えますが、実は曲面ガラスの使用に大胆とも言える窓の大きさなど、かなりモダンなデザイン。ソヴィエトだけではなく帝政ロシアへの印象も改めざるを得なくなります。こんなデザインできるくらいのモダニズムがあり、支えられる資本主義的財力もあって……。
 帝政時代のロシア=封建時代とか中世の延長、というのも偏見だったと知らされます。


 食後のコーヒー。本格的なカフェもこの辺にはあるようなんですが敷居の高さ?でパス。スタバ風の店が入りやすくて助かります(トイレも借りやすい)。値段は日本と変わりませんから、それなりに高級店なのかもしれませんけど。
 ケーキはロシア菓子の伝統を感じる美味しさ! 日本で同じ値段じゃ食べられまいと。
 ちなみにロシアの人はコーヒーより、紅茶飲んでる人が多かったです。


 ヨーロッパの街でありがちな「何処に向かってシャッター切ってもサマになる」状態。


 午前中とは別系統の市電のるため、再び地下鉄へ。
 (モスクワと違って)撮影禁止らしいですが、空気読んでそっと撮れば大丈夫です、たぶん。
posted by 西方快車 at 23:59| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

追記あり【第9日目の15 20090603】ペテルブルグ篇15(鉄道博物館12[完]。列車砲とミサイルランチャー)

 考えてみたら列車砲の保存例って世界にどれくらいあるんでしょうか?
 兵器としてはマイナーな部類であり、かつ鉄道網を使った作戦が終わったら用済みになる柔軟性のない特殊兵器。残っているのは奇跡めいているのかもしれません。


 このアングルから見ると、兵器というより大物車or架橋工事用操重車(ソ300等)に見えます。


 主砲が見えると、兵器っぽく見えますね。


 主砲付近アップ。重量感が凄い。


 砲弾。ちょっと投げやりな感じの展示ですが参考にはなります。


 全景。この車の詳細は分かりませんが、第二次大戦当時のものだと思います。


 星マークの赤い車輪が愛国心を鼓舞してますね(苦笑)。
 一部の車輪にだけロッドが掛かっていた跡があるのに注目。自走能力を持っていたってことでしょうか?

【追記】
 詳細に関して、junqawai様より解説板の写真を頂きました。有難うございます。



 口径305mm。最大飛距離30km。発射間隔2発/分。
 1938年に3基製造。使われたのは1939-41年の間、対フインランドとの戦闘の模様。期待していた?ドイツの列車砲との射ち合いとはならなかったようです。というか線路幅違うんで直通できるのは軌間が同じフィンランド位ですね。
 1991年までは射てる状態で保たれていたというのは本当でしょうか?


 装甲車。ドイツにも似たようなのありますよね。

 そして、締めはRT23ミサイルランチャー編成
 冷戦期の鉄道兵器としては最大・最強・最後のものでしょうか。広大な鉄道網を有するソ連ならではの、戦略ミサイル原潜の陸上版でしょうね。

 




 こんな縦長の鉄道車両?ほかにありますまい!




 全景! 手前に見えるのはアンテナではなく、架線押し上げ装置。

 かつて我々西側を狙っていたミサイルであるにも関わらず、禍々しさは不思議と感じさせません。むしろ頭の中で鳴り響くはサンダーバードのテーマ。勿論JR西日本の電車じゃなくてイギリスの人形劇の方ですよ。「核の脅威、冷戦…」みたいなドキュメンタリーで流されるような、おどろおどろしい曲は似合いません、多分。

 あと、帰国後お台場のガンダムも見に行ったんですが……。この移動式ミサイルランチャーみた後だと巷間で云われるほど感激感動できませんでした。どう考えてもガンダムが勝てる気がしません(笑)。
 ええと……戦略兵器のICBMと戦術兵器のMS比較するのが所詮、無理ありすぎですね。

 冷蔵車に偽装しているのも鉄道ファン的には美味しいところです。よくぞ押し込んだものと、そういう意味でも関心します。


 偽装対象である冷蔵車(参考写真)。
 ……似てはいますけど、サイズが全然違うので遠目に見たら(=衛星等で見たら)一発でバレそうです。一応、トンネルなどに隠しておいたという話ではありますが。


 ミサイルランチャー車のアウトリガー。車体を地面と固定します。
 側面の怪しげなハッチ群にも注目です。


 屋根の開き方が大胆。


 連結部。客車同様のゴム幌で繋がれ貫通可能? 普通の冷蔵車ではケーブルが渡されているだけですから、ここも識別ポイント。


 台車は複式4-4ボギー。流石にソ連と言えども、複式ボギーの超大型貨車は少数派です。冷蔵車では採用例は自分の知る限り、ないはず。だから遠目に見ても「複式ボギーの冷蔵車=ミサイルランチャー車」と分かってしまう……。
 枕バネが4連なのも貨車用台車としては珍奇。


 指令車。窓や開口部・可動部がなくて一番普通の冷蔵車に近い外見でしょうか……。でも足回りはミサイルランチャー車道用の複式ボギーですが。


 電源車。ロシアの冷蔵車には必ず電源車がつきますが、ぜんぜん違う形です。やはり足回りは複式ボギー。


 ミサイルランチャー車の解説。
 1986年製造。全長23.6m。幅3.2m。高さ5m。重量200頓。
 135トン積み8軸貨車をベースに設計された。屋根は油圧ギアにより開閉する。ミサイルは0.43メガトンの核弾頭を10個搭載する。
 ミサイル飛距離10100km。ミサイル長23m。打ち上げキャニスタ長21m。ミサイル直径2.4m。ミサイル打上重量104.8頓。ミサイルと打ち上げキャニスタ長の総重量126頓。

 ……鉄道車両のスペックですよね、これ?
 ミサイルの長さとミサイルランチャー車の長さが変わらないと云うことは、かなりの極限設計であることが推測できます。


 電源車の解説。
 1986年製造。全長23.6m。幅3.2m。高さ5m。 
 100KWのディーゼル発電機を4機搭載。また、架線の押し上げと短絡を行う装置も備える。

 一節にはロシアの電化率は90%とか云われますので、この種の車の運用には架線が邪魔になります。非常事態だから架線は切ってしまうのかと思いきや、押し退け機を使うとは! まぁ架線痛んで再利用できないでしょうが、コレ発車、もとい発射するときにはそれどころじゃないでしょう。


 指令車の解説。指令車というより、この移動ミサイル編成についての解説ですね。
 鉄道趣味的な部分だけ要約すると……。

 1987年〜1991年に12編成が製造された。
 編成は以下の通りである。
 「指令車+ミサイルランチャー車+電源車」のユニット3組
 兵員輸送車7両
 燃料+潤滑油タンク車(複数両?)
 M62ディーゼル機関車 3重連

 思ってた以上の長大編成で運用されていた吉。
 ここに展示されてるユニットが3組……格好いいんですけど、胸焼けしそうです。3×12編成ですからこんなのが36ユニットも配備されてたんですね。

 日本語版Wikipediaの解説はこちら。

 2005年までに退役してるとのことです。というか数年前まで現役だったのに街中に堂々と展示しちゃう大胆さに感服しちゃいます。……禍々しさを感じさせないのはこの堂々としたところにあるかもしれません。

 ロシア語版解説はこちら。
 日本語版にはない記述多し。Googleで訳して読む価値充分です。そしてリンク先の記事にも写真豊富。
http://www.popmech.ru/article/4801-nedobryiy-molodets/
 指令車の車内写真もあり! ブラウン管テレビのおかれた食堂と厨房を見ると不思議と和みます。
http://www.rusarmy.com/forum/topic2039.html
 博物館についたばかりの、屋根を閉じた写真あり。

 動画。
http://www.youtube.com/watch?v=uRwsDxFC1P8
「History of Russian Rail Forces #2 Cannons @ missiles」
 稼動状態が写っているんですが編集が悪くて肝心のシーンが見えにくいのが難。


 指令車側から編成を振り返る。左の機関車はおなじみM62。


 兵器関連の展示はこんな感じです。
 鉄道ファンだけではなく、軍事ファンの訪問もおすすめですよ?


 最後に振り返って一枚。
 頭端式ホームの行き先表示機が、ここが10年ほど前まではワルシャワ駅であったことを思い出させます。
 左手にちらりと見えるのは留置車両。先にも触れましたが本線とつながっている理想的な鉄道博物館の一つでもある由。
 
posted by 西方快車 at 21:10| Comment(5) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【雑記】右サイドバーにリンク追加しました。

 中国鉄道関連・モンゴル鉄道関連・ロシア鉄道関連で主要なところを取り敢えずリンクしました。ロシア関連はGoogle翻訳で和訳できます。

 なお、個人ブログ・旅行記に関してはプライベートな性格もあると思いましたので、リンク対象には加えておりません。但し、希望がありましたらリンクいたします。
 
 また「西方快車」そのものはリンクフリーです(わざわざ明示することもないのですが……)。
 写真(picasaに挙げたもの)も「西方快車」表記を行ってくだされば非商用での転載・利用・加工(動画・ウソ電等)は自由です。商用利用はご一報ください(……そんなことないと思いますけど)。
 
 関連して連絡先を明示しました。
 東京在住ですので、話題のあう方(鉄道・旅行関連ならなんでも雑食好き嫌いなしですが)とのお茶・呑み・鉄などお付き合い致します♪
posted by 西方快車 at 18:46| Comment(2) | リンク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

【第9日目の14 20090603】ペテルブルグ篇14(鉄道博物館11。ああER200! 週1運転の謎の高速電車)



 前にロシア鉄道の乗車券を取り上げたことがありましたが、地紋はER200でした。やっぱり誇りであったんでしょう。この高速電車に関しては、日本語版wikipediaでも解説があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ER200
 ここより乗車記(日本語)へのリンクもありますので、必見です。

 さて。
 モスクワ⇔サンクトペテルブルグ(レニングラード)間と云うのは常に高速運転の実験場になるようで、ガンツ社製の気動車に始まり、高速ディーゼル機関車TE7、電化後はChS2にChS2T、そしてChS200が導入されてきたところです(うち、ChS2TやChS200は現行ですね)。
 もちろん、高速電車ER200(ЭР200)もこの区間への導入を目論見、1974年に14両編成が1本製造されました。
 ER200は当時の日本でも趣味誌で紹介されてました。あと、幼少期の写真図鑑でソ連のページに載っていたことを覚えています。当時、西側も含めてそれなりに期待はされていたのです。

 しかし、運用にはなかなか入らず……。
 あの国のことなんで(苦笑)、いつの間にかなかったことにされるのかと思いきや、なんと1984年になってやっと週1回(金曜日のみ)の運用に入っていたのでした。
 増発を意識してかどうか、1988年に先頭車のみ2両が増備。そして国家体制まで変わってしまった後の1991−1994年にかけて第2編成が増備されています。第2編成の先頭車はテールライトが上下ダブルになり、若干形状が変わっています。
 それでも、週1回という運用は変わらず。

 変化が予想されたのは1997年。後継車VSM250(ВСМ250)「ソコル(Сокол)」が試作され、2000年には量産に入るとも報道されました。これでER200も引退かと思われたのですが……。
 2002年、VSM250の計画は中止。その影で、ER200は相変わらず週1回だけモスクワとペテルブルグの間を往復していたのでした。
 2008年、遂に一部車両が廃車。サンクトペテルブルグの鉄道博物館に収蔵。
 2009年2月20日に定期最終便運行。2月28日の関係者招いての記念運転にて完全に引退となったのでした。1974年から数えれば35年ですから、初期車に関しては高速電車として長生きしたと云えるでしょうか(私もまさか今年に入っても走っていたとは知りませんでした。数年前に完全引退したものかと……)
 ただし走行距離はかなーり割り引いて考える必要はありそうです。なにせ週1運用予備率100%以上ですからね。

 一応ソ連の技術者の名誉のために記せば、新幹線の成功を意識して導入された1960-70年代の200km/h級の高速列車は惨敗したものが殆どです。
 アメリカ:メトロライナー(電車)。1969年にデビウ。トラブル多く大改修要す。客車列車置換えで1980年までに引退。
 イギリス:APTは歴史的大失敗。1983年に数週間のみ運用に入っただけで引退。ただしHSTは成功。
 西ドイツ:200km/h運転を意識して高速電機(103)や高速電車(ET403)造るも、高速運転は長続きせず。ICEの営業は1991年までお預け。
 イタリア:ETR450は1970年代から開発されてたものの、運用開始は1988年。
 フランス:唯一の勝ち組。200km/hの実績を在来線で固めていたので当然と言えば当然。
 
 というわけで、週1回運行という反則スレスレの運用ながら、2009年まで高速運転保って頑張ってきたER200は、ひとまず褒めていいような気はするのです。
 また、2001年より最高速度200km/hで運行しているChS200電機牽引の「ネフスキーエクスプレス」も忘れてはなりません(先日テロでの被害がありましたが、列車や線路の問題ではない事に注意!)。所要時間はER200と同じ4時間半! しかも、こちらは毎日運転!
 高速電車ほど派手ではありませんが、高速電機+高速客車という従来の技術の積み上げも高速鉄道においては軽視できないもの。今度のサプサンはドイツからの輸入車ですが、次期高速鉄道車両はロシア独自技術が復活することに期待したいと思います。
(それにしても、VSM250はどうなっちゃうんでしょうね……)


 先頭車の側面。窓埋め部にはビュフェがあります。先頭車はソフトクラスとビュフェ併設なので、日本流にいえば「クロシ」となります。


 床下。雨宿したついでに潜り込みました。


 保存されているのは先頭車2両と中間車2両。先頭車は2両とも初期型です。


 ……ホームに横付されると現役を思わせる雰囲気。編成での保存は羨ましいです。
 よく言われることですが、高速電車の中で最も「0系レスペクト」に富んだ形状。それでも0系新幹線との差別化のできた、悪くない形状です。
 ソ連時代の電車なのに、カラーリングはロシア国旗と同じというのは意味深なものを感じます。


 台車。ソ連の客電車とは全くちがった形です。
 パンタグラフは独自の形状なんですが、撮り忘れました……。


 行き先表示。サンクトペテルブルグ⇔モスクワ。ER-200というのは列車名にもなっていました。

 さて、次回で鉄道博物館篇もおわりです。
 今までの写真でもチラリチラリ見えていた「アレ」を遂に紹介できます!
posted by 西方快車 at 22:35| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月11日

【第9日目の13 20090603】ペテルブルグ篇13(鉄道博物館10。半流の急客機、最初のディーゼル、最初の電機)

 鉄道博物館篇がすっかり長くなってしまって、興味ない方には申し訳ないです。と思いかけていたところでコメント頂けました。有難うございます。

 個人的には、記事書くためにあれこれ調べてるうちに、ロシアの鉄道車両の体系が見えてくる感動味わいながら進めています。この辺は趣味者の少なさと情報量の少なさゆえの役得ですね!
 勿論、語学力ゼロ(未だにキリル文字の対応が分からない!)でGoogle翻訳頼りのいいかげんな記述です。より濃い方のご指導ご指摘、補足などなどいただければ幸いです。

 



「ソ連最後・最強の半流急客機。活躍は1974年まで!」旅客用蒸気機関車 P36(П36)

 こちらも参照。
http://scado.narod.ru/catalog/r_p_p36.htm

 製造年1950、1953-1956年。製造両数251両。
 車軸配置2D2。2600-3000馬力。設計速度125km/h

 ロシア・ソ連の車両に関してロクな知識持っていなかった私ですが、流石にこの機関車だけは知っていました。特徴的な半流線型、そして1974年までとソ連の蒸機末期まで生き延びたこと。そして末期までシベリア鉄道の非電化区間で使われたことで西側の旅行者の目に触れる機会が多かったこと……。

 1950年に試作。1号機はより完全な流線型カバー付き。ちなみにΠ36の前の旅客用標準機
http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9F%D0%B0%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%BE%D0%B7_%D0%98%D0%A1
 JS(ИС)(車軸配置1D2。1932-1942製造。649両)には1両全流線型のもあったようです。

 1953年より量産。現実的な妥協も込で半流線型での量産を行ったのは立派だと思います。やはり機関車、特に急客機は格好良くなきゃいけないと思うんですよ。
 勿論、外見だけではなく性能も第一級。第二次大戦後の急客機の中では世界的にみても名機なんでしょう。日本で云えばC62、西独ならBR10辺りに相当するのでしょうか。ただしC62は所詮は貨物用機の改造の間に合わせ、BR10は2両のみの試作機であっさり終わってしまってますけど。

 Π36は1956年に251両で生産が終わりますが、既にディーゼル機関車時代に入っていますから「よく頑張った」と云えましょう。この保存機はその251両目であり、ソ連最後の新製蒸機として記念的なものとなり、前面にはその旨の装飾が施されています。
 
 なお、動態保存機が4両もあるそうです。いつか走る姿を拝んでみたい、或いは牽引する列車に乗ってみたいものです。




「現存最古の本線用ディーゼル機関車」ディーゼル機関車 Schael1(Щэл1)

 こちらも参照
http://scado.narod.ru/catalog2/r_t_shchael.htm

 製造年1924。製造両数1両。
 車軸配置1C+D+C1。1000馬力(電気式)。設計速度75km/h
 
 現存最古のディーゼル機関車とも云われますが、入換用(産業用)の小型機ならこれより古いものが残っている可能性はありそうなので。ただ、本線用としては現存最古、歴史的機関車ではあります。

 さて、本線用ディーゼル機関車の開発と云うのは初期にはなかなか上手くいかなかったようです。
 1912年、プロイセン州州営鉄道向け。機械式。1914年廃車。
 1917年、GEがニューヨーク市内の蒸機禁止区間向けに電気式を試作。
 1924年、ロシア鉄道向け。電気式。
 1929年、ボールドウィン+WHがカナダ国鉄向けに2両納入。
 1929年、エスリンゲン+MAN+ブラウンボベリ、日本向けDC11を納入。

 この中の、1924年のロシア鉄道向けと云うのが、このSchael1(Ge1)となります。しかし、例によって成績は良くなかったもようで、1927年には廃車。1934年まで据え置きボイラーならぬ据え置きの発電機として使われたとか。1972年から保存展示されたといいますが、その間の空白は38年! さすがに貴重な機関車とはわかっていて解体されずに済んだのでしょう。
 スタイル的には当時の電気機関車に似ています。電気機関車+ディーゼル発電機で良い意味で無難な設計を狙ったのだと思いますが、それでも上手くは行かなかった。まぁこの図体で1000馬力ではどう考えても経済面で割が合わなかったでしょうが。

 ちなみに、ソ連でディーゼル機関車が量産されるようになったのは第二次大戦後のことです。既に紹介したTE1やTE2など……アメリカの技術が入ったものではありましたが。


「ソ連最初の電機。そして原型」 電気機関車 Ss(Сс)

 こちらも参照。
http://scado.narod.ru/catalog3/r_e_s.htm

 製造年1932-34。製造両数21両。
 車軸配置C+C。出力340kw×6。設計速度65km/h

 見ての通り、日本の旧型電機そっくりのスタイル。違うのは先輪がないことくらい。
 似通ってる理由は日本もソ連も電機はアメリカを手本にしたから。このSs形に関してはほぼ同時にS(無印)も製造されており(8両)、そちらはGE+アルコ製。昔のSやSsの写真を見ると、見事にアルコ製の特徴たる田形窓が見られます。
 なお、ほぼ同時期にイタリア製のSiも導入されていますが、こちらはやや欧州系のスタイル。ただし足回りはC+Cでほぼ同じ。なお、スイス系のブフリ駆動と思われる旅客用PB21(ПБ21)
http://scado.narod.ru/catalog3/r_e_pb21.htm
 も作っていますが、これは1両のみで終わりました。
(二次大戦前のソ連では、旅客用電機はこのPB21の1両のみのようです)

 日本でもEF10やEF52で固まった機関車の形状が1950年代後半まで形式変えつつ造られ続けたの同様に、ソ連でもSは原型となり、1956−61年のVL23(ВЛ23)まで続きます。Sグループ(S 8両、Ss21両、Si 7両)は少数派ではありましたが、起源として重責を果たしたのでした。

 なお、Sは1973年までに、Siは1965年までに廃車されています。Ssはもう少し生き延び、最終廃車は1979年でした。保存機はこの1両のみの模様。



「ロシア現存最古の国産機関車」 入換用蒸気機関車

 入換用の可愛らしいCタンク。このクラスになるとどこの機関車もスタイルは似通ってくるものです。
 1897年製造。ただし非現存機としてはもっと古くから機関車の国産化には成功していたのかもしれません。なんであれ、革命前の歴史的なお話なのですが。
 オイルランプはやっぱりラブリー。


 小型タンク車。タンク体リベット打ちの古典的なもの。
 タンク上部の大きなカバーが印象的です。危険物用のタンク車では安全弁や積卸装置がタンク体上に並ぶことがあり、また保安上の理由でカバーリングされることがありますが、これもその種の目的でしょうか?
posted by 西方快車 at 23:59| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月09日

【第9日目の12 20090603】ペテルブルグ篇12(鉄道博物館9。ロシア客車の謎)

 今回は客車3種を取り上げますが、ロシア・ソ連の客車に関して概略をば。

 ロシア・ソ連では長らく客車=寝台車でした。平均的な運行距離考えればこれは必然的なことでしょう。普通の座席車というのは(通勤用以外では)、二次大戦後にモスクワ〜レニングラード間がスピードアップされて初めて導入されたものと推測するのですが……はて? 今も主要列車で座席車編成はこの区間(モスクワ〜ペテルブルグ)の昼行「ネフスキーエクスプレス」「アブローラ(オーロラ)」のみの筈。
 もう一つ、ロシア・ソ連の客車で特徴的なのは今もなお1・2・3などの等級表示がないこと。共産主義のタテマエからというのは理解できなくもないんですが、ソビエト崩壊20年たっても鉄道の等級制に関する抵抗が無くならないのでしょうか? 中国なんか昔から「硬座車」「軟座車」等の表記してますけど、それも修正主義なんでしょうか(苦笑)。まぁ趣味的には定員表示で等級の区別がつくのですけどね。現用車だとMEST(MECT)18が一等(リュクス)、MEST36が二等(クペ)、MEST54/80が三等(プラッツカルト)といった加減。
(余談ついで、TAPA56とか記されているのは自重表記で、56頓という意味)

 ちなみに、ソ連時代の鉄道の等級に関する社会主義的解釈がなかなか奮ってます。おなじみ「写真で楽しむ世界の鉄道4(1964交友社)」より引用。
「(客車にはハードクラス・ソフトクラスなどの区別があるが)これは階級的差別ではなく、個人の選択の自由に任せてあるものであると説明されている。すなわちめいめいが旅行の楽しみのために使う費用が多かろうと少なかろうとそれは各人がどれでも欲する平等な権利を持っており、それに支払う金は自らの労働によって得たものであるから、どれを選ぼうとも差し支えないのである」

 ……だそうで。上質なアネグドートだと思うのもよし、等級制に対する理想的な解釈と見るもよし。日本のグリーン車とかクラスJはその種の理想が叶った一例なんでしょうかね?

 閑話休題。ソヴィエト時代の客車に関しては解けない謎があるんですよ……。
 今にも引き継がれる、そして共産圏の客車としてあまりにおなじみの
「鋼製・側面リブ付き。台車はシュリーレン系」の1950年代以降のタイプ以前に、
「木製をそのまま鋼板にしたような・縦長の小さい窓・台車は古典的・屋根は古典切妻」な如何にも1920年以前のタイプしか見えてこない……その間40年の客車史が全く見えてこないってことが。

 他国(日本・アメリカ・西欧)の客車史的には、この間には、
「鋼製・ウインドシルヘッダー付」というアメリカのヘビーウェイト、日本のオハ35やワゴンリ鋼製車のような1920〜30年代のタイプが必ず存在し、両数的にも結構なボリュームを占めてたりします。まして1940年代には流線型の鋼製車(アメリカのスムーズサイド系や、ドイツのスカート客車、満鉄あじあ号)があってもおかしくない位。
 でも、ロシアの客車は1920年以前の古典的な車から、一気に1950年代のリブ付き共産圏鋼製車に飛んでしまっています。乱暴ながら日本で喩えるなら、木造車をそのまま鋼製にしたようなオハ31が1950年代まで大手を張って本線第一級で使われ、その代替がなんといきなり10系軽量客車になるようなもの。スハ32もオハ35もスハ43もすっ飛ばして!

 実際にはこの間の世代「鋼製・ウインドシルヘッダー付」の客車も製造・使用されていたのかもしれません。ソ連でもエレクトリーチカSR3は「鋼製・ウインドシルヘッダー付」という姿ですから、それに近い姿の客車の存在を推定することもできましょう……。
 しかし、それらが博物館などに一切保存されず、プロパガンダ用も含めた公式写真も存在せず、事業用車として近年まで生き延びることもなく、倉庫等の廃車体も現存せず……というのもちょっと考えにくいんです。1920〜30年代の客車っていうのは洋の東西問わず1980年頃までは現役で残り、近年まで事業用車や廃車体として残存、客車である以上(特に優等車)写真等の記録もそれなりにされてて保存車もあり、というのが普通です。製造されていたとしても記録に残らないほどの少数派であったのかもしれませんが……。




「木造車時代の流儀を引き継ぐ、古典的スタイルの鋼製車」 三等車?

 製造時期不明。
 ただ、相当に古い設計のものであるとは推定できます。1910年代(すなわち革命前)の木造客車を、そのまま鋼製に置き換えたような印象。鋼板は木造車同様の縦張りですし、床下のトラスバーは木造車の流儀そのものです。縦長の小さな窓も、或いは切妻屋根も古典的な欧州客車の流儀です(切妻屋根はダブルルーフや丸屋根以前の流儀。日本でも明治期の雑形木造客車には切妻が多かったんです)。西欧だと1920年位までに製造されたタイプでしょうか。
 車内はロシアのことですから三等といえど寝台車でしょうか。窓割りから定員寝台60名と推測します。
 台車は車体形状に似あわぬ近代的なものが付いてしまってます。枕バネこそリーフサスながら、軸バネはシュリーレン系の円筒案内式でどう考えても1950年代以降のタイプ。長く使い続ける上で交換されたのでしょう。

 
「やはり木造車流儀。なんと2軸の小型客車」 三等車

 製造時期不明。
 ただ、日本でこそ早くに本線から消滅した2軸客車も、西欧(特に西独やイタリア)では第二次大戦後も使われた事実は無視してはなりません。木造車の鋼体化まで行われていました。
 ロシアの影響下にあった東支鉄道(東清鉄道)でも1932年地点で客車の72%が2軸車だったといわれ(「続 大陸の鉄輪21-2」鉄道ファン1984-7 vol279)、客車=寝台車であった以上、2軸の寝台車(1〜3等)も多数存在したのでした。ロシア本土も同じ状況であったとも推測できるのです。




「1953年、ロシアの客車の大革命? 初の全鋼製車!」 三等車

 1953年製造。定員56(三等寝台)。製造ポーランド。
 英文解説があったので、それを信じる限りでは「ソヴィエト初の、全鋼製客車の系列である」とのこと。要は、それまでの客車は全鋼製ではなかった!ということになります。木造車的鋼製車からこの近代的な車に一気に移行したという仮説を信じたくなるじゃありませんか。
 近代的なノーシルノーヘッダの近代的な外見。日本なら軽量客車10系相当。ただし自重は52頓もあるので当時の西欧や日本のトレンド?であった軽量化はまだまだ。というより、共産圏じゃ軽量化真面目に考えるのはずっと後のことになりますけど。

 今のロシアの標準的な客車の直接的ルーツになります。ただし、この車には共産系の客車でお馴染みのリブが全くありません。ちょっと試作車的な雰囲気があります。ちなみに「写真で楽しむ 4」だとこの系列の客車はすべてリブ付きの写真が収録されています。
 台車は軸バネはシュリーレン系の円筒案内式で枕バネがリーフサスの初期の標準型。1960年代に枕バネがコイルサス+トーションバーに移行し、今に至ります。
 この保存車は1994年までオムスクに所属し、西シベリアで使用されたとのこと。41年というのは客車としては長生きした部類でしょうね。


 小型有蓋車。帝国紋章が復元されてますので、多分革命前の型なんでしょう。




 大物車。積載110頓。1962年製造。
 2007年の引退後にやってきたもので、この博物館では新顔です。




 産業用のC形タンク機。自重55頓。500馬力。1953年製。
 こんな小さな機関車まで装飾つけまくるセンスが素敵。全面の星に、タンクやシリンダへの色差し赤い動輪に白い手すり。現役時代にはこんなに綺麗だったとは思えないのですけど。
posted by 西方快車 at 20:21| Comment(2) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

【第9日目の11 20090603】ペテルブルグ篇11(鉄道博物館8。蒸気機関車。貨物用大型機中心に)

 先にも記しましたが、ロシアの鉄道車両全般、とくに蒸気機関車に関してはなんの興味もない状態での訪問でした。アメリカやドイツ(あと最近だと中国)の機関車と違って日本語の資料もろくになく、それ以前にロシア機=どんくさい泥臭いカッコ悪い……という偏見がシミついてたからかもしれません。
 一応、電気機関車に関してはシベリアでの活躍がとても身近なものでしたので(何せ自分の「部屋」を丸4日引っ張り、その間平均15分に1回はすれ違ったりしたんですから!)旅行中に情が移り魅力を感じるようになってきました。「ロシアのED72」「ロシアのEF58」で出会えたのも予備知識無しだったから余計に嬉しかったからかもしれません。

 しかし、蒸気機関車に関しては元々日本国内でも興味が薄かったこともあり、各地の保存機関車(ロシア名物のホーム上保存)を車窓から撮り、このペテルブルグの鉄道博物館を訪問した時でさえも身近には感じることはできませんでした。実は雨の中、好きでもない蒸機撮るの面倒だなぁ……はやくEP200やRT23撮りたいとか思ってたもんです(苦笑)。

 でも、今こうして調べごとしながら纏めていて、初めてロシアの蒸機を身近に感じだしています。確かにどんくさい泥臭い印象はありますけど(苦笑)、それも魅力に感じちゃってるんですよ。少なくともカッコ悪いとは思わなくなりました。知識がつくと。

 で、改めて思うのは魅力を理解するには、体験(乗車とか訪問とか撮影)と、資料調査(まぁネットで調べるだけですけど)の両輪が必要なんだなと。
 勿論、どちらかが強烈でありさえすれば片輪でもいいんですけどね。敷居の低く、かつ良質な紹介文や写真があれば、体験なしでもふつうは魅力は伝わってくるものです。おなじみの日本に、あとアメリカや西欧に東アジアの鉄道あたりはなんとかなってます。でも、ロシアは……。
 ……やっぱり日本語文献が必要だなと思うんですよ。シベリア鉄道扱った本やサイトは少なくないですけど、車両にまで踏み入ったものは殆んどないのが現状ですし。
 





「これも革命前の古典形式で大量生産機」 貨物用蒸気機関車 Ov(Ов)

 こちらも参照。
http://scado.narod.ru/catalog/r_p_o.htm

 製造年1890-1915/1925-1928年。製造両数9129両。
 車軸配置D。550〜720馬力。設計速度55km/h
 
 古風なD形先輪従輪なしのテンダー機。古そうな機関車ですが実際古くて製造初年は1890年! 明治で云えば23年。日本だと未だ輸入機が幅きかせてた頃の機関車ではありませんか。ただし製造が33年間続いて9000両以上作ってしまう辺りはやっぱりロシアだと思うのですが。
 ここの保存機(1902年製造)に関しては、大きなヘッドライトに継ぎ足したような形の煙突が魅力的。火室上の謎の円筒(給水温め機か、エアタンクか?)も面白いディテールです。
 シリンダの色差しというお洒落も忘れていません。





「強力機・大型機。ロシアのD51かD50か」 蒸気機関車 SO(СО)
 こちらも参照
http://scado.narod.ru/catalog/r_p_so.htm

 製造年1934-1951年。製造両数4487両。
 車軸配置1E。設計速度75km/h

 車軸配置こそ異なりますが、世代的には日本で言うところのD51相当でしょう。デフレクタもキャブ周りもなかなか近代的な印象です。でも台枠はどうみても前世代の板台枠で微妙に古臭いのがなんですが。キャブ屋根の丸み(深み)も微妙にダサさを強調しちゃってますね。D51というよりD50かもしれません。
 まぁ全体としてはカッコ悪くありません。シリンダブロックの形状がなんとも優美なのも良い。

 保存機に関しては装飾デフレクタが目立ちます。XXXってどういう意味なんでしょうか? 30? 革命30周年記念(1947年)とかありえそうですよね?



「戦後生まれの強力機。一気に近代調」 貨物用蒸気機関車 L(Л)

 こちらも参照。
http://scado.narod.ru/catalog/r_p_l.htm

 製造年1945-1955年。製造両数約4200両。
 車軸配置1E。2200馬力。設計速度80km/h

 日本では蒸気機関車の軸配置は旅客用は2C1、貨物用は1D1というのが決まりごとのようなものですが、ロシアだと旅客用は1C1、貨物用は1Eというのが定番のようです。
 先のSOを引き継ぐ形での1E貨物機。さらにパワーアップしています。また、足回りも棒台枠のように見えますし、動輪もついにボックス型に。全身に近代化されちゃっていますね。まぁお陰でロシア的御伽趣味からは遠下がってしまったのも事実ですが。されど、Z(З)以来の絶壁を見上げるような前面はやっぱりロシア機です。
 フロントステップを兼ね、そしてランボードまでを結んでしまう階段的なステップも魅力ある特徴でしょう。
 また、この保存機に関しては不思議なデフレクタ?がついているのも見逃せません。デフレクタとしての効果を狙ったものなのか、単なる装飾なのか?

 蒸機末期まで残った形式だそうで、それゆえ動態保存機も多数見られるようです(20両以上も!)。




「1956年製、最後の貨物用強力機。その志は中国のQJへ」 貨物用蒸気機関車 LV(Лв)

 こちらも参照。
http://scado.narod.ru/catalog/r_p_lv.htm

 製造年1952-1956年。製造両数552両。
 車軸配置1E1。2420馬力。設計速度80km/h

 頑固なまでの1Eを通してきたロシア(ソ連)の貨物用蒸機にもついに従輪がついて、1E1になりました!
 そして、蒸気機関車の最後の新製形式ともなりました。すでにディーゼル機関車の量産も始まっていた時代ですから製造両数もロシアにしては控えめです。
 しかし、1956年の製造打ち切り後も、志は新生共産中国に引き継がれます。早い話が1988年まで製造されてた前進型(QJ)の原型です。こちらは4714両も造られています。
 
 ただ、中国だとデフレクタがつくのでかなり印象は違いますよね。素人目には同一原型に見えず、説明きいて当時の国際情勢思い出してああ納得!という感じでしょうか。
 
 ロシア蒸機とアメリカ蒸機が日本人に馴染みにくい取っつきにくい印象あるのは、ドイツ蒸機や中国蒸機と違ってデフレクタがなかった(少数派)からじゃないかと思うんですが、どんなものでしょうか?
 アメリカ蒸機のマッチョイズムは相当なものなんですが、スケール的に同等な中国蒸機にはその種のマッチョイズムは感じられません。デフレクタという部品は機関車の印象をマイルドにする効果があるんだと思います。

posted by 西方快車 at 23:59| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月06日

【第9日目の10 20090603】ペテルブルグ篇10(鉄道博物館7。実はカッコいいロシア蒸機♪)

 さて、収蔵車の半分を撮りきったところで雨が……。しかもだんだん強くなってきます!
 傘は国内外ともに持ち歩かない主義なんで(根拠はなんにもない)、どうしょうもない最悪の事態に。気合で撮影は続けましたが、レンズに水滴付くのまでは防ぎようがなく。画質悪いのはお許しください。

 で、後半戦でついに蒸気機関車登場です。
 個人的には蒸気機関車って国内外問わずあんまり思い入れはないんですが(幼少の地点で身近なのは電車ばかり)、やっぱり存在感は大きいですね。
 ロシアの蒸気機関車に関してはなんの知識もない状態での見学となりましたが……。





「ロシアの9600? 世界一の量産機。革命前から蒸気末期までに一万両」 貨物用蒸気機関車 Z(Э)

 こちらも参照。
http://scado.narod.ru/catalog/r_p_ae.htm

 製造年1912-1936/1943-1944/1946-1957年。製造両数10853両+輸出用4138両。
 車軸配置E。920〜1300馬力。設計速度55km/h

 貨物用のひたすら鈍重でそして頑強な機関車。製造開始は革命前の1912年。改良を重ねまくった末の製造終了はフルシチョフ時代の1957年。45年間に製造されたのは国内だけで10000両以上!
 ロシアを代表する、いや鉄道史を代表する機関車と云っても過言ではないでしょう。同一形式10000両以上製造された機関車なんてほかに思いつきません!
(アメリカの規格化されたディーゼル機関車ならありえるかもしれませんが……。この辺詳しくないので、どなたかのご教示お願いします)

 日本の9600を思わせるところ(長期間の製造と使用。両数の多さ。活躍の幅の広さ)はありますが、名機9600を以ってしてもこの喩えは失礼かもしれません。失礼重ねるついでに例えるなら、4110をテンダ機にしたような印象でもありましょうか。5軸で先輪も従輪もなしという割り切りは4110に共通しますし。

 蒸気機関車の設計に関して細かくは知りませんが、ベースには確実にドイツ機の流れは感じますね。そしてロシア機特有の装備群。全周に至るデッキと手すり、防寒キャブ。星飾りにシリンダの赤い縁取。ドイツ機の良いところにロシアの微妙な土臭さとロマンチズムが融合して魅力的な機関車になってると思うんですよ。




「アメロコ。WW1の助っ人は、WW2にもやってきた」 貨物用蒸気機関車 E(Е)
 こちらも参照。
http://scado.narod.ru/catalog/r_p_e.htm

 製造年1915-1918/1943-1947年。製造両数3193両以上。
 車軸配置1E。1950馬力。設計速度55km/h

 アメリカはアルコとボールドウィンの生まれ。
 製造年が見事に第一次大戦中と第二次大戦中に被っています。製造期間のブランク25年。
 推測ですが、第一次大戦中に輸入した機関車が調子良かったので、二次大戦中の逼迫期に「同じもの」を注文した結果だと思われます。両数はちょうど半々くらい。
 出来は悪くなかったようで、1970年まで活躍したようです。
 







「無火機関車って知ってますか?」 無火機関車 9305
 製造年1928年。引退時期など不明。

 無火機関車は、火気厳禁の製油所・化学工場などで用いるボイラーを持たない蒸気機関車のこと。外部の据え置きボイラーから蒸気の供給を受け、タンクに溜め込み、その力で走行するというもので、日本でも八幡製鐵構内や、鶴見のシェル石油で使われていたのが知られています。
 走行距離や効率面では優れたものではなく、容易に防爆構造にできるディーゼル機関車に置き換えられ、世界的に姿を消していきました。

 普通の機関車ならボイラーに見える部分が蒸気タンク。ドームやシリンダ(前後逆ですが)安全弁は蒸気機関車と共通しますが……でも、煙突はありませんし煙室扉だってありません。見れば見るほど奇妙な、そして憎めないスタイル。玩具的というか積み木的なかわいらしい配色も溜まりません。
 この珍品を保存してくれたことに感謝♪ですね。







「麗しきは草原を駆ける」 旅客用蒸気機関車 S.68(С)

http://scado.narod.ru/catalog/r_p_s.htm

 製造年1910-1919年。製造両数678両。
 車軸配置1C1。1300馬力。設計速度115km/h

 車軸配置はいわゆるプレーリー。日本だとC58しかないので印象に残りにくいのですが、ロシアでは2C1のパシフィックの同様に扱われたようです(ロシアでは2C1は存在しないか少数の模様)。
 この機関車も急行旅客列車用として、ロシア各地を駈けまわったのでしょうか? 革命前後のシベリアをも横断していたのでしょうか?

 中堅機のイメージの強いプレーリーでありながら、スタイルに関しては優美なものであり、他国のパシフィックたちに劣る印象はありません。とくに尖った煙室扉はバイエルンの名機S3/6を彷彿させます。ペルペア火室や密閉キャブもロシア機らしい個性として認めたくなります。そして大型のヘッドライト! 何度も語ってきたところのロシア人の御伽趣味を感じることができるのです。

 この機関車の多くは1960年代まで生き延びました。
 この保存機は引退後定置ボイラーとして使用されていた機体が1970年代に発見されたもので、登場時?の姿にレストアしたものだとか。
 ワゴンリ寝台車と編成を組んで展示されてますが、実にお似合いではありませんか。








「やや近代化。旅客用機の決定版」 旅客用蒸気機関車 Su(Су)

 製造年1924-41/1947-1951年。製造両数2683両。
 車軸配置1C1。1380-1565馬力。設計速度115km/h

 先のS.68を若干近代化したソ連時代の増備機。もちろん車軸配置はプレーリー(1C1)。
 この機関車もまた急行旅客列車用として活躍したものと考えられます。27年かけて2600両以上製造というのがロシアの機関車らしすぎるといいますか。
 日本でいうなら8620かC51にあたる……といいたいのですが、C55やC57、はたまたC58にも相当する形式ともいえましょうか。

 S.68にあったような装飾類は減っていますが、すっきりした姿はそれはそれでいいものです。赤とダークグリーンの組み合わせには十分御伽要素が残っていますしね。
 ところで、炭水車の上の円筒はなんでしょうか?
posted by 西方快車 at 23:49| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月02日

【第9日目の9 20090603】ペテルブルグ篇9(鉄道博物館6。気動車と電車とか)

 ロシアの鉄道車両(客車)の特徴のひとつに、アメリカ流儀の「自動連結器」と、欧州流儀の「バッファー」が共存していることがあります。
 バッファーのレーゾンデートルは欧州圏との直通車との連結のため……とも云われていますが、ロシア全体で見ればその種の運用と無関係の車のほうが圧倒的に多いはずです。さらに中国や北朝鮮の客車までバッファ付に巻きこんでますし(笑)。
 この辺は社会主義的・官僚主義的な無駄なのか、或いは乗り心地面でのメリットを採っての装備なのか……? 後者だとすると褒めてもいいような気はします。
 余談ですが、実は自動連結器の本場アメリカでは貫通路部分にバッファーを仕込んだセンターバッファーが標準になっています。中国も満鉄系の流れで同様でし。
 要は、自動連結器なのにバッファーなしで連結器の遊間上等な日本がケチ過ぎた……というだけのようですね(除く新京阪♪)。まぁ密着自連と云う解決策にはたどり着きましたけど。

 なお、今でこそバッファー付は客車限定ですが、過去は蒸気・電気・ディーゼル機関車もバッファー付でした。「写真で楽しむ世界の鉄道 4」を見る限り、1956年ごろが端境期になっているようです。この博物館の収蔵車でもバッファー付の機関車や、その痕跡(バッファー穴を埋めた跡)が確認できるはず。
 具体的に、ディーゼル機関車では前面4枚窓のTE1〜TE3初期小窓までがバッファ付。電気機関車では旧世代のVL23辺りまでがバッファー付でした。TE3やVL23は量産途中でバッファーなしになってます。一方で新世代なVL60辺りはバッファーの痕跡さえありません。
 なお、機関車のバッファーの撤去はどれほど徹底されたかも不詳です。博物館収蔵車だと、後世に復元された可能性だったありますので、現状が正しい保障はありませんしね。




「ロシアのEF58、或いは『チェブラーシカ』」 直流電気機関車 ChS2(ЧС2)

 製造年1958/1962-1966/1968-73年。製造両数942両。
 足回りはC-C。主電動機出力3430kw。設計速度160km/h(許容140km/h)。

 旅客用電気機関車。今もシベリア鉄道の直流電化区間で活躍する姿が拝めます。3/4列車や19/20列車といった国際列車にも充当されており、花形機関車としての地位も確固たるもの! EF58という喩えは極端かもしれませんが、整ったスタイルと東欧機っぽいエキゾチズムの融合はちょっとしたものではないでしょうか。
 チェコスロバキアのシュコダ社の製造。1958年が初産ですが、これら1〜3号機は試作機。1962年の4号機以降が量産機で、1973年までの間に計942両も製造されました。試作機の写真は「写真で楽しむ〜4」に収録されていますがバッファー付。後年の機でも痕跡は残っています。

追記:試作1・2号機は量産機とはまるで異なる姿でした。ChS1形とも似てません。3号機は少し量産型に似ています。

 後継のChS2Tも1972〜1976年に120両製造され、総計1000両以上の大グループになっています。カラーリングのバリエーションも豊富。保存機は塗装直し中の姿ですが、若番機はこんな淡いカラーリングでのデビウだったのでしょうか? ハワイアンブルー……?

 3両の試作機こそ早期に廃車されてしまったようですが、大多数が現役の模様。2002年より240両ほどが車体乗せ換えも含む大更新を受けています。また外形に手を加えないレベルの内部機器更新も行われているとか……当面、廃車する気はないんでしょうね(笑)。

追記:流石に更新だけではなく廃車も行われています。

 ちなみにこの機関車のスタイルはロシア人にとっても愛すべきものと認識されているのか、現地での愛称は「チェブラーシカ」。云われてみると似てますよね?

追記:ロシアの鉄道写真投稿サイトだと、ChS2は割と人気があるようで、在籍数の割に写真の量も多めだったりします。かつてはモスクワ⇔レニングラード間での高速運転(オーロラ号:昼行)もありました。今のChS200によるネフスキーエクスプレスのような存在だった模様。







「鉄道大国ソ連もディーゼルカーは苦手?」 急行用一般用ディーゼルカー D1形

 1960〜1980年製造。製造両数不詳800以上。
 4両固定編成(M+T+T+M)。機関出力500馬力(編成で1000馬力)。機械式。設計速度120km/h。
 定員は先頭車が77、中間車が128。

 このD1は1960年にハンガリーのガンツ社で製造されたもの。「写真で楽しむ〜4」によれば、モスクワ〜レニングラード間に投入されたとありますが、中間車の定員128名というのは長距離用とは思えない詰め込み仕様です。ちなみに当時の標準型硬席車は寝台60(座席90)というスペック。首都と旧都を結ぶ列車にしては軟席や供食設備への配慮もないのが気がかり。ちなみにガンツ社では上等級や食堂の設備をもつ編成気動車は結構製造してますので、メーカーとしてデラックス車が造れないわけではないです。
 実際にはモスクワおよび、レニングラードの近郊にエレクトリーチカ的に投入された、というほうが正解ではないかと推測しますがはて?
 あと、スペックの割に機械式というのが奇異な感じですが、ミッションの自動化(機械式気動車の総括制御)に関してガンツは何か独自技術でも持っていたのでしょうか? 先頭車の台車の片方が3軸ボギー台車というのもなかなか奇異な感じです。

注記:ガンツ社は別のタイプのデラックス・高速気動車をモスクワ⇔レニングラード間に投入していました。1960年頃まで使用された模様。

 なお、欧州の車輌写真ではおなじみのサイト、Railfaneuropeを見る限り、
http://www.railfaneurope.net/pix/ru/diesel/dmu/pix.html
 ソ連・ロシアではディーゼルカーと云うのは少数派のようです。考えてみれば電化率が高く、また中距離以上の輸送では客車=寝台車が使われるという事情からすれば納得のいくことなんですが。
 ソ連時代の形式は、このD1とDR1の2形式のみ? 試作とかナローゲージ用とか含めるともっと種類は増えるのかも知れませんが(例えば、サハリンで使用された日本製気動車など)。あんまりやる気はなかったようですね。これは1990年代まで動車組が登場しなかった(試作的なの除く)中国と共通してるのかもしれません。

 上記サイトに拠れば、D1は2008年地点ではまだ健在の線区があるようです。

注記:ソ連時代の気動車はD1とDR1以外に数形式あります。まぁどれも少数派ですが。なお、D1には現役車があり、内外装の更新も進められています。


















「ソ連の旧型国電 戦前型」 近郊型電車(エレクトリーチカ)SR3(CP3)形

 1932〜年製造(1952年製もあり、ほぼ同形)。製造両数不詳(多数のはず)。
 3両編成(Tc+M+Tc)。主電動機出力180Kw×4。直流1500V(後に3000Vに昇圧)。設計速度85km/h。
 定員は先頭車が108(+立席52)、中間車が105(+立席50)。

 モスクワやレニングラードの都市近郊電化は何時ごろ始まったのでしょうか? この電車の製造が1932年ですが、それ以前に木造電車時代があったのかどうか気になるところです。

追記:1926年にバクーにて電車運転が始まっています。欧州系の可憐な大型電車の写真が残されています。以下参照。

 電気機器はこの地点では国産出来なかったようで、英国メトロポリタン・ヴィッカーズ社のものを擬装しています。180Kw×4の電動車は電車としては大出力の部類ですから(例えば新幹線0系が185Kw×4)、3両編成で1M2Tでも良く走ったことでしょう。設計速度85km/hというのは俄かには信じがたい……その気になれば100km/hは余裕、120km/hも狙えるように思えるんですが真相は如何に?
 電気関係は1956年に1500V用から3000V用に改造されています。ソ連の鉄道電化は直流1500Vで始まったのですが、1950年代に直流3000Vに統一が行われた由。

 車体はリベット打ちの箱型車体で、日本人にも馴染みやすい?スタイルでしょうか。特にツートンカラーの制御車は日本の私鉄電車と間違えそうな位……。ただし、戦後製の車はリブ付車体になったりしててソ連の電車らしさが強くなってきますが。
 車内は木製の3+3の固定クロスでロシア流儀の詰め込み仕様。ちょっと乗りたくないかも(笑)。
 台車は板枠でイコライザーなし、ここは欧州流儀ですね。

 保存車は荷物室付?の制御車+中間電動車+制御車の3連で、日本流に云えばクハニ+モハ+クハ。制御車だけツートンカラーなので別のところから持ってきた可能性はありますが、元来の編成も実はこの3連だった由。実際には複数ユニット組み合わせて6〜9連で使用されたとのこと。
 
 なお、ツートンカラーの制御車はドアステップなし、中間電動車と荷物室付制御車は大仰なステップ付ですが、これはステップなしの方が原型です。

追記:正確にはどちらも原型ではないです。ツートンカラーの車の方は後年に自動ドアの引き戸に改造されてますので。荷物室付制御車の荷物扉が一番原型に近いようです。


「写真で楽しむ〜4」では1950-60年代のエレクトリーチカは全てステップなしの姿の写真が収録されています(ドアも車体とツライチ)。エレクトリーチカの運用範囲が広がるにつれて、低いホームの区間にも対応する必要が出てきたのでしょう。日本ならホームのほうを電車運転に合わせて嵩上げするところですが(笑)。
 ちなみに、今のエレクトリーチカもほぼ全てステップ付です。

 この電車が何時まで現役だったのか、掲示もなく資料もないのでよくわかりません。日本国鉄では1932年製の電車…戦前型旧型国電は一部の例外除けば1980年ころには淘汰されてますので、やはりその辺りなんでしょうか? 

追記:今も現役らしいです……。







「革命前の生き残り。ロシアのワゴンリ!」 木製寝台車 3号
 1903〜1914年製造。製造CIWL(国際寝台車会社)。定員1等8、2等10、乗務員2.
 
 グリーン1色の飾り気のない姿ではありますが、車体形状にはどこか品格というか風格のある客車です。車端の絞りの形状なんか、どっかでみたような……。
 ……正体はなんと革命前に輸入されたワゴンリ寝台車! オリエント急行のお仲間がこんなところにも……1・2等寝台で定員計18名。相当に贅沢な車だったのでしょう(ああ、車内を見たい!)。
 ちなみに木造ワゴンリの保存車は西側でも数えるほどしかないそうですから、その意味でも貴重な車です。

 革命後の運命は知る由もありませんが、最終的には工事用宿泊車として生き残ったとか。そのため、車端の尾灯類は今のロシアの客車と同じですし、台車もシュリーレンタイプに換装されています。意外と「現役」として長生きしたのかもしれません。




「革命前の客車。もう少し庶民派?」 木製寝台車 番号不詳

 1917年以前製造。製造所不詳。定員など不明。

 先のワゴンリよりは庶民的な客車だと思います。ただ、等級などの情報がないので正体がわかりません。窓割から推測すると、写真の右側から4人個室4室・2人個室4室の1・2等寝台車ではないかと思うのですが(ぜんぜん庶民的じゃない!)
 世界的にいえることなんですが、客車の保存車は優等車や貴賓車(御料車・社用車含)の類に偏りがちですよね。まぁ貧乏くさい3等車と豪華な特別車のどっちかを残すということになれば、どっちが優先されるかは自明のことなんですけど(苦笑)。


 小型貨車。今のでかいソ連貨車見慣れていると同じ軌間に乗っているのが俄かに信じがたい雰囲気(笑)。
 背後に見えるのはワルシャワ駅々舎です。ガラス張り屋根のコンコースのある立派なものだったようです。
 

 リベット打ちのタンク車は日本なら明治期のタイプ。車体幅と軌間があんまり差異がないのも注目。
posted by 西方快車 at 21:44| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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