2009年12月24日

【第9日目の19 20090603】ペテルブルグ篇19(市電その5……にはなりませんでした。ハズレの街歩き。モスクワに戻る55列車)

 そういえば、ペテルブルグの街を歩いていると何度か年配の方に声を掛けられました。勿論、友好的な雰囲気で。ロシアが親日国であることを実感しますけど、こちらが全然ロシア語分からない悲しさ。大変に申し訳なく思う次第で。

 さて。
 市電撮るのも落ち着き、モスクワ駅に戻るためネフスキー通りへ向かう16系統の市電に乗ろうと思いました。しかし、16系統であろう軌道敷はあるのに、なかなか停留所が見つかりません。
 やむなく、軌道敷沿いにあるきながら、電車を探すことにします。


 リチューイヌィ橋。ネヴァ川に掛かる可動橋の一つ。上には可動橋を示す標識があります。
 ちなみに時間は22時位。限りなく白夜に近い世界。日本の同じ時期の19時くらいの明るさなので、その点でも不思議な感覚ではあります。


 橋の開閉時刻の掲示。1日1回、1:40〜4:45まで開ける旨。
 深夜なので、泊まらないと可動の見学は無理ですね。


 欄干の装飾。人魚が艶っぽく、尾の部分が可憐。やっぱり革命前のもんなんでしょうか?


 川を渡っても停留所が見つかりません……。
 ここで間違えたのが、地下鉄に乗ろうと地下鉄駅探してしまったこと。素直に軌道敷沿いにネフスキー通りまであるけば、最短距離で迷うことなくモスクワ駅に辿りつけたハズだったんですが。


 





 迷ったおかげでであえた?古風なビルたち。食傷気味かもしれませんがお許しを。
 よくよく考えてみたら、ペテルブルグの中心部だとモダニズム系のシンプルなビルの方が稀……というか皆無かもしれません。
 共産主義時代に美しい街並みを壊さなかったことは、いろいろ考える余地がありそうです。
(例えば、壊して立て直すカネがなかったという可能性だってありそうなものですし)


 多くのビルはデコラティブなんですが、さすがに人物系の彫刻は珍しいものでした。


 可愛らしいトレーラー。

 で、迷った挙句にまた16系統軌道敷に戻り、ネフスキー通りまで出て23時過ぎにはモスクワ駅に辿り着きましたが、まっすぐいけば2kmも無かったのに、迷ったおかげでえらく余計にあるいたような。
(ちなみに16系統の停留所に電車はついに見かけず。廃止されっちゃったみたいですね)
 系統が全くわからず言葉もわからないためバスに乗れないのは、ちょっと辛かったです。

 救いは時間的余裕があったことでしょうか。何せモスクワに戻る55列車は0:40発ですから。
 
 駅では多少の時間があったのでまだ開いてたカフェテリアで夕食取ったら美味しくなかった(おまけに対応よくないし)。でも外に出る気力が残ってなかったので仕方がなくと。
 そして0:20ころに55列車の改札開始。ちらりと到着して回送待ちのロシア最高速列車(当時)「ネフスキーエクスプレス」も見えましたが、やはり写真とるほどの気力なし。

 帰りはリュクス(一等寝台)張り込んだので、どんな車か楽しみではありました。車自体は行きのクペのような新型ではなく、やや古そうな車でした(3列車のクペと同じような)。デッキでのチェック時に時間がかかりオバサン車掌にあれこれ(ロシア語で!)云われたので「切符になにか間違いが? 乗れないのか?」とか不安になりましたが、単に部屋番号を伝えただけのようです。わからなそうな顔してたら、部屋まで案内してくれましたから。


 1等寝台車MECT18の廊下。カーテンがやや上質に見えますが、基本的に2等寝台と同じです。床の絨毯上に布敷くのは貧乏臭いので1等寝台ではやめてほしいものですが。
 木目の化粧板はRW19ほど上質ではないです。さて、部屋はどんなものかしら(次回に続く♪)。


 おまけ、この半日お世話になった折りたたみ傘(耐久力皆無。ビニール傘なみの¥400位)。技術力に無理あるなら無利して3折の傘にしなけりゃいいのに……。当然ゴミ箱行(苦笑)。
 ペテルブルグは雨が多いみたいなので、まともな傘は日本から持っていった方が良さそうです。
posted by 西方快車 at 19:57| Comment(0) | 2009年北京→モスクワ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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